沿革

 妙昌寺は室町時代(正確には南北朝時代)現在より650年前である永和元年(1375年)に池上本門寺第四世 大鷲妙泉阿闍梨日山聖人により開創され、法眞院日意聖人によって開山されました。当時諸堂は城下町の中心、時の鐘のすぐ近くである旧多賀町及び現 川越市役所付近の本町にあり、総門は現在の川越郵便局付近、旧江戸町にあり広大な境内となっておりました。
しかし江戸時代の川越大火により城下町の大半がことごとく焼き払われ、当山も全焼失致しました。その後寛保元年(1741年)にときの川越城主 松平伊豆守信綱公により川越城を改修、城内整備する為、当山は最初の焼失から40年かけて現在の三光町にある旧浅場孫兵衛侍屋敷跡地に移築し、この地に先にあった辨財天と併せ新たに妙昌寺境内が構築されました。
現在は面影微かとなりましたが、その昔妙昌寺の高台からの富士山の展望は市内随一と言われ、広く歌にも謳われました。また広大な池に浮かぶ辨財天は蛍の名所として知られておりました。

辨財天に寄せられた和歌(江戸時代)

宝をも うち出す神の徳ゆへか  つちのとの巳にまつる御社   阪月
弁天の 影向(ようこう)なれや 燕子花(かきつばた) 池のおもても紫の雲    茂躬
この神の 恵みに茂れ 蛇復盆子(へびいちご)     如松

妙昌寺からの富士山眺め図(江戸時代)

  
 さらに戦後まもなく昭和24年(1949年)妙昌寺は再び本堂を焼失することとなりました。戦後に家も無くなり、行くあてもない人々が生活できるようにと、当時住職であった第三十一世 日陽上人は共に乗り越えんと本堂・境内を生活の場として開放しました。火災の原因は生活者の火の不始末でありましたが、日陽上人は布教専心、本堂再建を志し仮本堂を建立維持し、さらに志を受け継ぎ当山第三十二世 玄正院日修上人と当時の檀信徒の方々のお力添えにより平成4年(1992年)新本堂を再建成就と相成りました。二度目の焼失から再建まで、同じく43年の月日が経っておりました。
日修上人は引き続き平成14年(2002年)弁天堂の改修及び境内整備を行い妙昌寺護持発展に尽力致しました。
 現在はさらに境内及び庭の美化整備をすすめ、古代蓮の池を作庭、辨財天庭園も完成しました。四季折々の草木をお楽しみ頂ける風情ある静寂の境内は、訪れる人々の癒しと憩いの場となっております。